「表現祭のありよう」について

公文国際学園中等部・高等部
学校長 梶原 晃

いよいよ第32回表現祭の幕が開きます。ご来場くださったすべての皆様に心より御礼申し上げます。

わたしはこれまで代々の表現祭実行委員長に向かって、「一期生は、文化祭ではなく、公文祭でもなく、なぜ「表現祭」と名付けたのか、その理由を考えてほしい」と投げかけてきました。

それは、「表現祭」とは何かについて自分なりの解釈を(学園の伝統を守るためにも)確定したうえで表現祭を総括してほしいからであり、学園の創立者公文公の「もっといいものはいつもある」という言葉の通り、その年の実行委員たちにとって「もっといい表現祭」を創りあげてほしいからでもありました。

ところが、今年は前年度と今年度の実行委員長がふたりそろって校長室に来室して、校長の考える「表現」とは何かと、逆にわたしに質問してきたのです。一瞬、先手をとられたなと思いましたが、結局、わたしの考えを積極的に伝えることはしませんでした。

実行委員長をはじめとする実行委員たちが議論と熟慮を重ねれば、彼らならではの「表現」を生み出せるはず。なのに、ここでわたしの考えを伝えてしまったら彼らにバイアスをかけてしまう。わたしはそのことを恐れたのでした。

それに、そもそもわたしの問いかけに「正解」などなかったのです。むしろ、その年のすべての生徒たちが「今、表現すべきことは何か、自問自答しながら自走している」状態こそ、Torchのごとく燃えあがる「表現祭のありよう」なのだと、わたしは思います。

実行委員長をはじめとする実行員会メンバー、そしてすべての学園生たちが作り出した「今年の彼らの答え」を、皆様とともに楽しませてもらいましょう。